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越中五箇山は飛騨白川郷と隣接しており、上平、平、利賀の3ヶ村を含めた総称で、重畳する山塊 の峡谷を縫ってこの村中を庄川の源流が流れています。 この五箇山の歴史は、遠く寿永のむかし (約800年前)、源平の戦いに敗れた平家の落人たちが逃げのびてきて、なれぬ手つきで村づくりの 鋤鍬を持った頃にはじまります。 とにかく合掌づくりを建て、余暇をなぐさめる民謡を唄い、昔の栄華を偲んでいたものでしょう。 星うつり月かわって、いまは観光ブームに乗った民謡が大衆に歓迎されていますが、それにひきかえ、 合掌造りの方は居住性に不便なところからドンドン改築され、急速に姿を消しつつある現状なので、 この建築様式の文化価値を認識した文部省は昭和33年5月14日に、この岩瀬家を国指定重要文化財 に指定し、保存に力を入れることになりました。 岩瀬家は、およそ300年前に、8月年の歳月を費して建てられたもので、当時越中の豪族といわれ た藤井長右エ門によって、天領飛騨白川郷の向うを張って、加賀百万石の威光を示したものだといわ れます。藤井氏は加賀藩の塩硝上煮役で、区域の塩硝をとりまとめ、藩へ納入する役宅ででもありま した。屋中の下手半分は総欅造り、座敷は書院造りで、毎年役人が収納巡視にくるとき、この書院の 間で宿泊しました。総体は間口26.4m(14.5間)奥行12.7m(7間)高さ14.4m(8間)の結構であり、大 黒柱などは30cm(1尺)角のもの、平物(まぐさ)は54.5cm(1.8尺)x24.2cm(8寸)。 24畳敷きの山居(デイ)は敷板も全部欅材を使用してあります。屋根が急勾配なのは、降雪量の多い当 地では、雪が落ちやすいという効果と、内部を幾階にもわけて活用するための利点を配慮してありま す。当家は準五階建てですが、3〜5階は養蚕作業場であったため間仕切りがなく、上に手が届くほど の高さに区分してあります。床板が透かしの目並になっているのは、春蚕時に下の炉からの暖をとり、 通風をよくするためであり、合掌と屋中を結んでいる藁縄とネソ(まんさく)を漆塗りのように煤で固め るためででもあります。合掌造りは、すべて縄とネソで結びあげ、釘は一切使ってありません。なお、 当地方では、隣接の白川郷とともに、大家族制度の地方として有名ですが、当家でも、90年ほど前ま では36人もの家族が住んでいました。この家族の中に一部の使用人が含まれていたことは白川郷と異 りますが居住者はすべて一階(大きな家では中2階も使用)で寝起きしていたことは同様の形態です。 また、当家においては、観覧するものとしては、家長の間と仏壇、書院の間と武者隠しの間、奥式台 の雨戸(鎧戸)、長押の桃、牛乗石と牛薬石、塩硝釜、火夫屋、大屋の仕組み、自然石の大水槽、池の 石垣などであります。 (資料は岩瀬家発行のパンフレットから転載させていただきました) |
平面図はDLした画像を見ていただくと、見やすいです。
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楽器や小物など・何に使うのかと思うだけで楽しいです
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右上・塩硝釜 加賀100万石前田藩主が他藩に秘して等値で塩硝製造を命じた際使用したものなり 当主
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